【文化】シーギリヤ遺跡
切り立った岩の頂部に築かれた壮麗な宮殿の遺跡は、恐らく世界で最も有名な我が国の古代遺跡でしょう。単に「シーギリヤ」と言及した場合、多くの文脈でこの遺跡のことを指し示すはずです。以前投稿したアヌラーダプラの記事でも、一時的な王都として言及しました。
紀元前5世紀に成立したアヌラーダプラ王国の後葉初期である477年、カッサパ1世は父王をクーデターにて暗殺することでその王位を得ました。しかし母親が庶人であったことからその正統性には疑問符が付けられており、王族を母に持つ異母弟のモッガラーナによる王位奪還を恐れました。そうした潜在的脅威から逃れるために王都アヌラーダプラを離れ、新たに建設したのがこのシーギリヤなのです。王は全周が絶壁で侵入路が極端に少ないこの岩頸に、さらに要塞的性格を兼ね備えた王宮や水路、庭園などを築きました。岩頸は約195mの高さを誇り、484年に完成した要塞宮殿などと併せて考えればまさに難攻不落の都でした。
しかし、半ば非合法的に得られた王位は長続きしません。最大の懸念であったモッガラーナが亡命先の南インドから帰還し、軍を率いてシーギリヤを攻囲したのです。初めこそカッサパ陣営が優位でありましたが、援軍なき籠城戦では敗北は時間の問題。結局カッサパが観念して自頸し、シーギリヤはここに陥落したのです。
改めて即位したモッガラーナ1世はアヌラーダプラに還都し、シーギリヤの元王宮を僧侶に寄進しました。修道院は13〜14世紀までは存続したようですが徐々に衰退し、16〜17世紀に我が国が分営地とするまで記録は残りませんでした。その後も王国の混乱によって放棄され記録が散逸し、イギリス保護下の1875年に再発見されるまでその存在は忘れられていました。この時発見されたのは岸壁中腹の壁画群(通称「シーギリヤ・レディ」、下の画像)で、現在は18体が保存されています。
現在は官民合同の観光振興局が設置され、遺跡の周囲に多数の民泊などが整備されています。近くには黄金寺院のあるダンブッラなどもあり、観光拠点としても用いることができます。
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