【情報】上座部仏教とは何か 歴史編

成立と伝播

先の記事でも言及したように、上座部が部派仏教として成立したのは2回目の結集の時である。釈迦の入滅から100年で、重要でないとされた戒律について僧伽ごとに様々な異同や変更が生じたことが始まりである。そも釈迦はかかる戒律について「重要で無いものは僧伽毎に変更して構わない」としており、実際食習慣が異なった北部インドなどでは托鉢の時間が他地域とずれることも多かった。ここで問題になったのは、釈迦が示した「重要でない戒律」の範囲で、これを定めるために2回目の結集がなされたのである。結局議題に上がった戒律は変更不可と決定されたのだが、ここで修正を支持する派閥が分裂して大衆部となった(根本分裂)。
セイロン島へ仏教が伝来した時期について、古文書群『ディーパワンサ(島史)』『マハーワンサ(大史)』では具体的な日付について食い違いが確認されているが、概ね紀元前3世紀頃として良いだろう。アショーカ王の子息マヒンダ王子が齎した御仏の教えに帰依したデーワーナンピヤティッサ王によって僧院が築かれ、ここに大寺派が誕生した。しかしかの派閥は後から流入した大乗仏教の無畏山寺派や祇多林寺派と共に鼎立時代を迎え、12世紀にパラッカマバーフ1世が大寺派正統を決定するまで困難に立たされることになった。

興隆と衰退

かくて正統の地位を獲得した大寺派は最終的に大乗仏教を排斥し、セイロン島における仏教派閥の統一に成功したのである。以降大寺派は東南アジアへも拡大して繁栄の絶頂期を迎えるが、繁栄を極めたものが衰えるのは釈迦の説いた通りである。
16世紀以降、ポルトガル・オランダ・イギリスと植民地化の憂き目に遭ったセイロン島及び我が国では、次第に仏教そのものが衰えを見せていった。キリスト教の布教に邪魔だったのか、或いは自然的なものなのかは未解明だが、宗主国政府にも弾圧の記録は無く、人為的に滅ぼされた線は薄いだろう。

近代の中興

仏教の衰えを危機と見たキルティ・スリ・ラージャシンハ1世王は、東南アジアに伝えた上座部仏教を再輸入することで復興を図った。王はまずアユタヤ王朝のウパーリ長老一行を招き、1753年に受具式を行った(シャム派)。しかしシンハラ人社会独特のカースト制度が動揺することを懸念し、最上位カーストのゴイガマ(農民)だけの参加を許した。これに不満を覚えた他カーストの人々は自らコンバウン王朝王都アマラプラへ渡って受具式を受け、帰国後1803年に国内での受具式を開始した(アマラプラ派)。こちらにも満足できなかったアンバガハヴァテー・サラナンカラはやはりビルマに渡って受具式を受け、1864年にラーマンニャ派を開いた。当初はアマラプラ改革派程度の規模であったが、神智学協会が齎した宗教改革の波に乗って勢力を拡大した。

執筆者:ビームラーオ・ダルマパーラ
スリ・カンディのガンゴダーウィラ大学卒業、日本の南都大学大学院客員教授。専門は南伝仏教史、仏教教義。

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