【情報】セイロン史概説⑤ 主権回復と現代

独立前後

1931年の憲法制定以降、セイロン島はある話題で揺れていた。すなわちキャンディ王国と英領との統合問題である。この時点まで両者は併存している状態で、同じ民族でありながらその在り方に違いが生じるのは好ましくなかった。両者から度々イギリスへ統合の陳情が行われたが、本国は他の英領地域において似たような動きが活発化することを望まず、全て却下された。これが認められるのは、1948年の主権回復までを待たねばならない。
民族対立も深刻化していた。イギリスがインドタミル人を導入して以降様々な官庁でシンハラ人の仕事を奪うようになり、またイギリスもそれを奨励するように優遇したことでシンハラ人からの怒りは積み重ねられ、両者には復旧困難な隔たりが生じることになった。この問題は現在でも尾を引く。
1948年に英領セイロンが自治領(ドミニオン)として独立し、またキャンディ王国も同日主権を回復した。両者はイギリスとの協議の末統合が決まり、年内に王国憲法が改正されキャンディ王国としてセイロン島はついに統一された。英コモンウェルスへの残存については、一度は離脱したものの「イギリス国王への忠誠」条項が後に削除されたことを受けて1957年2月に再加盟した。

現代に至るまで

独立の翌年から、大きな動きが続いた。1949年にタミル人の選挙権が剥奪され、7年後には公職を追放した。一連の流れはシンハラ・オンリー政策と呼ばれ、両者の対立を一層深めるものであった。公職追放の同年には「ブッダ入滅2500年式典」が挙行され、シンハラ仏教ナショナリズムと呼ばれる政治思想が確立され高揚した。
両者の溝は解消されないまま1972年の憲法改正を迎え、国号が現在の「スリ・カンディ王国」と改称された。また仏教について「至高の地位」が与えられるなどシンハラ人優遇は進んでいき、ここに反駁するタミル人がテロリスト集団「タミルの栄光ある虎(TGT)」を非合法に結成した。1983年にはタミル人暴動を扇動し、翌年のコロンボ遷都を余儀なくさせた。彼らは1987年に「タミル解放の虎(LTT)」と改名し、一方的に独立を宣言。本格的な内戦を引き起こした。なお研究者によっては、先のタミル人暴動を内戦の始まりと捉えている。
紆余曲折を経ながらも結局、内戦は2009年のLTT戦闘放棄宣言(事実上の降伏)によって集結し、彼らによって蹂躙された土地の復興を基礎とする各種経済政策が採られ、現在に至っている。内戦の反省からタミル人に市民権が改めて与えられ、テロリストによる攻撃も沈静化した。現在はLTTの残した罪を贖いつつ、両者の共栄が図られている。

【日本語版】スリ・カンディ王国政府広報紙 サティ

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