【情報】セイロン史概説④ イギリスの保護国時代
英・キャンディ戦争
セイロン島の海岸地域を手に入れたイギリスは、次いで内陸部を統治するキャンディ王国を保護国化しようと動いた。先の植民者オランダよりはるかに強力な存在であったイギリスに対抗する術は無く、1815年、国王スリ・ヴィクラマ・ラージャシンハ1世は王室・仏教・国民の保護を条件にキャンディ条約を締結した。条約では、以下の内容が定められた。
①外交権の接収
②国防権の接収
③他主権の維持
④王子への譲位
⑤英総督の設置
⑥英部隊の駐留
⑦補償金の支払
条約に従って国王は譲位し、スリ・ラジャディ・ラージャシンハ2世がイギリスの支援を得て即位した。
ところが1817年、係る状態を疎ましく思っていたウバの貴族が反乱を起こした(ウバの乱)。新王はイギリス軍の力を借りてこれを鎮圧し、イギリスへの追加賠償として同地はイギリス人の自由入植地となってしまった。ウバ攻略に際してイギリスは土地を徹底的に測量し、大規模道路を通し、山岳地域を都市まで繋げた。現在盛んな紅茶の栽培は、ここに端を発するものであり、またウバの乱以降同種の武装蜂起は発生しなかった。
かくして成立したイギリス領セイロン並びにキャンディ王国保護時代は、ここから実に140年以上続く。
保護国時代
先述の通り紅茶栽培はイギリスが始めたプランテーション農業の成果であるが、セイロン島は他にも貴重な作物を土着的に栽培していた。すなわちシナモンである。18世紀末以降はイギリスの手によって他の地でも栽培が始まったが、コロンボから輸出されるこのスパイスの地位は殆ど揺るがなかった。
鉄道の敷設もイギリス人の手によるものである。元はと言えばプランテーション農業で栽培された紅茶を港まで届けるのが主目的であったが、広軌による整備はその後の拡張を便利なものとし、現在の国営鉄道まで脈々と受け継がれている。
この時代、負の遺産も持ち込まれた。紅茶やコーヒーの栽培を行う労働力として、イギリスはインドタミル人を移民させた。そればかりか宮廷や総督政府の官人にも彼らを採用させ、王国に未だ続く分断を齎した。
1931年、王国に西洋式の憲法が誕生した。キャンディ王国憲法は議院内閣制と普通選挙を規定しており、現在にも続く理念を打ち出したものである。東アジア地域における不穏な動きに注視せざるを得ないこの時期に、王国は主権国家たり得る下地を作りつつあったのだ。
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