【情報】セイロン史概説③ 王国の分裂と西洋人
統一王朝の成立と分裂
1412年に即位したライガマ王パラクラマバーフ6世は1415年にコーッテへ遷都し、ここにコーッテ王国が成立した。王はヴィジャヤナガル王国やジャフナ王国に対して武力を以て接し、1450年に全島を統一した。
しかし王の死後地方の勢力が伸長し、1469年には内陸の山岳地域を根拠地とするキャンディ王国が成立した。1521年には内紛の末シーターワカ王国が地方支援の下に成立し、三国鼎立の時代を迎えた。ただ、この時代は後述する理由でまもなく終焉を迎えることになる。
白人の「陣取り合戦」
セイロン島における外国勢力の武力行使は1410〜1411年の「明・ガンポラ戦争」が初めてであるが、これはガンポラ王ヴィジャヤバーフ6世が火蓋を切ったものであり、しかも明側は鄭和船団のみであってその武力行使の目的は(当初のみであるが)自衛であったと言える。
武力による干渉は、1521年以降のポルトガルが最初といえる。ポルトガルは元々1505年に安全な交易のためにコロンボへ上陸したものであるが、シーターワカ王国に離反されたコーッテ王国からの要請に基づいて支援を行った。結局コーッテ王ダルマパーラはコロンボへ敗走してポルトガルの庇護を受ける形になり、コーッテ王国は滅亡した。続くシーターワカ王国は1594年にポルトガルの手によって滅ぼされ、同地はポルトガル領となる。コーッテ王国領も1597年にダルマパーラが世を去ったことでポルトガルに引き渡され、ここにポルトガル領セイロンが誕生した。
ところが葡領は、これをよく思わなかったキャンディ王国が当時ポルトガルと対立していたオランダと協定を結んだことで攻撃にさらされ、1658年に島から放逐された。しかしオランダは協定を違えて占領地を引き渡さず、そのままオランダ領セイロンとなった。
その蘭領も1795年にフランスがオランダ本国を占領してからイギリスの攻撃にさらされ、翌年には蘭領セイロンの全拠点が陥落した。その後ヨーロッパで締結された諸条約によって全てがイギリスに引き継がれ、イギリス領セイロンとなった。
この時点でキャンディ王国は沿岸部を全て奪われている状態であったが、他方でそれ以外の勢力はいなかった。この状況が後の「英・キャンディ戦争」の遠因となる。
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